もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

     
禅と産業 −片岡仁志

教え子の心に残る片岡の言葉

 片岡の教えを受けた人々の記憶に残った片岡の言葉をご紹介する。のちに各地の中学、高校、大学の先生、校長、学長になられた方々である。片岡は多くの教育者に多大の影響を与えたのである。片岡の教育理念は多くの弟子に受け継がれ、またそれが時代に受け継がれていく。本書を読んで、また強い影響を受ける人が多いであろう。片岡は死なない。永遠に生きる。本書はすべての教育者(茶道や武道の先生にも)が読むべき名著である。このHPをご覧になったあなたが、片岡の著書をひもとく気になったら、ありがたい。

悟り

 片岡は、教育関係者を前にした講演で「悟り」にも言及した。従来、頭で描いていた、「自分はつまらない」「自分は誠実でまじめ」などというのは、みな、幻であり、そういうものとは全然違った自分を直観する。すべとの人の根底にあって平等であり、宇宙に遍満するものであると自覚できるので、これこそ「真の自分」だと、絶対的に納得するのだ。
◆「禅というのは、自己自身の、本心、本性、それが如何なるものかということを自分が自分になりきることによって、その状態、そのものになって直観できるという、これが悟りということなんです。本当の自分というものは、ただ形や概念の上で考えられている、そういう私的な自我ではありません。自我というのは、現象を材料として、概念的に我々の理性が作り上げた自己概念に違いありません。」(A18)
 別の論文でも次のように言っている。真の自己を仏教では、「無」「仏性」「仏」「真如」などとも言う。
◆「そういうふうな状態の真の自分というものには我がない。私心もなく、私欲もなく、私というものが一点もないものなのです。何等の主観的なもののない、そういう状態。そうなりますとそこが無と言われるものです。我々生命のいちばん根本の統一というものは無である。無ということは、無いということではないのです。あらゆるものが、そこから現れていく、そういう根元になる無なんです。無一物中無尽蔵、本当の無の状態の中に無限なものが含まれ、可能性が隠されて、そこから無尽蔵の働きが湧き出ていく。そういう生命の根元というような意味のものが、自分の本当の本性の根元だということがつかまえられてくると我のない無心の我になります。」(A21)
 これを体験的につかんだ仏教学者ならば、仏教は縁起説の思惟のみとは絶対に言わなくなるのであるが、体験しないものだから、経典の文字の解釈を誤り、それを学生、社会人に教えるから仏教が魅力なくなる。仏教は、縁起思想を文字で勉強するものであって、実践するものではないと考えてしまう。こういう片岡の主張はこれまでの思想に偏向した仏教学の批判にもなる。

不生不滅の自己

 別の論文で、真の自己について次のように言っている。
◆「自己は時の消滅の中に在るのではなく、消滅する時を基礎付ける基底そのものが自己である。消滅する時を自己の影と見る永遠が即自己である。不生不滅とか、永遠とか言われるゆえんである。大燈国師は「自性本より現われて百千の日月よりも明らかなり、ここに於て心を注けて明め取ることあり、これを見性と名付く」と言っている。仏教では、見性によって仏性を悟ると言っているが、我々の言葉で言えば人格性を悟ると言う意味でなければならない。カントも人格性の神聖を論じているが、この体験によって自覚せられる無相清浄の本性は、特に霊性と名付け、単なる精神とは区別せられねばならないと思う。又この見性こそ、我々を感性的存在者から霊性的存在者に生まれ変わらしめる心情の革命でなければならない。」(D258)
 「不生不滅」なるものが自己であると悟ることによって、「死」についての観念も変わる。ちっぽけで、つまらない自分と思っていたのが、清浄、永遠なる宇宙のいのちである、と気がつく。「人格性」を悟ることにより、世俗の名誉等についての価値観も変わる。妻や夫や生徒や先生や、すべての人が、すばらしい存在(いわゆる仏、宇宙生命そのもの)であると、気がつく。人生観、価値観、世界観、生死観、対人関係、様々なことに大変革が起こる。

真の自分をつかんだ時

 片岡は、自己をつかんだ喜びの体験を持っているので、次のように言う。人生観、世界観が大変革を起こすほどであるから、大変な喜びが生まれる。大乗仏教の経典では「不退転」になるという。
◆「真の自分になり得たとき、それこそ欣喜雀躍、喜びに小躍りして喜ばねばならんような、そういう状態が体験させられるものです。手の舞い、足の踏むところを知らずというくらい、本当に自分の身も心も一つになった生命の統一状態に自分がいますと、そういう禅定の状態になりますと、本当の生命の満足というか、そういうものがそこに感じられるものです。そこに真の我というもののありかがつかめる。それが仏性と言われるものになるわけです。そういう真の我というものが、我が消滅してしまって、初めて体験される直観なんです。本当にそういう状態になりますと、自分をさがしたってなくなってしまう、そういう状態が現れてくる。これが、真の自分を悟る、自覚するということになるわけなんです。これを禅の方で言うと、悟りと言う。」(A21)

言葉

 片岡が教育界で特異な業績をあげて多くの教育関係者に慕われたことは、禅者が、それぞれの分野で個性ある業績をあげる好例である。茶の利休、俳諧の芭蕉、能の世阿弥、教育の片岡、その貫道するものは、一つである。日本に禅あることの幸せを思う。特に、将来の進路を決定する青年の頃に、このような教育者に出会うこと、禅にめぐりあうことの大事を思う。西田幾多郎、鈴木大拙、久松真一などのように。
◆「大学の先生は、大学院を出られ、すぐ大学・短期大学の先生になるのではなく、高校の先生、又は、社会に勤めてから大学の先生になるのが一番良いと思う。」(G325)
◆「女子高校教諭として女子を馬鹿にせず女子教育に誠を尽くせるか。」(G131)
◆「教師には哲学がなくてはいけない」(G145)
◆「純粋経験についてふれられ「草取りはまさに宇宙の統一だよ」と言われたことをはっきりと記憶している。」  (G146)
◆「宗教的生活の最も重要な指標は陰徳である」(G219)
◆「禅は宗教以前の宗教である」(G222)
◆「自分で直観的にわかっている、体験的につかんでいるものが、哲学書を通して確実な認識として、自分に捉え直すことができる」
「普遍妥当性のある真理として・・・・それを・・・子供たちの教育に生かしていかなければならない・・」  (G229)
◆「朝に礼拝、夕に感謝」(G295)
◆「齷齪(あくせく)するな、人は求められて自然の流れで動くもの。」(G300)
◆「真理は汝を自由にす」(G496)
◆「真理のためと確信し得る限り、いかなる犠牲も甘受しよう」(G497)

   
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